ご挨拶はいつも「おはようございます。」
人間60年も生きて来れば、人様に聞いてもらいたい武勇伝やら、苦労話やら、ラブストリーの一つや二つはあるものらしいので、かくいうわたくしにもそんな話はあるのだろうか?と考えてみたものの、ことさらぜひともこれだ!という決定打はなく、かといって何もないこともなく、年相応のノスタルジーと共に、つらつらと語りたくもなります。
小学生で始めたバレエのお稽古は、へたくそなりに、体を動かす、そして表現する、という楽しみ。
メイクアップをして衣装をまとい、別人に変身する喜びに気づかせてもらい、長く続けることとなりました。
公立の中学、高校時代には、部活動は演劇部に所属し、熱心に活動をいたしました。
中学生の時から、ステージで演技をする。ということに関してはものおじもなく、只々楽しいと思ったものでした。幼い時からバレエでステージに立っていたからでしょうか?
高校はごく平凡な田舎の県立高校で、当時のことですから、まず、大学に進学するのが当然の進学校でした。
その中にあって、成績もごく普通。進路指導では、中でも成績の良い現国や古文の勉強をする大学への受験を勧められていたようでしたが、読書が好きといっても、それを極める勉強に励む自分の姿は一向に思い浮かべることができませんでした。
ところが、舞台に立ち、まるで別人の人生やら、苦悩、喜びを表現するのは、楽しくてなりません。
かくして、高校2年生で、都内の児童劇団に通い始めることとなりました。
もちろんバレエのお稽古は続けておりました。本格的に進路を決める段階では、大学の演劇科、劇団の研究所、舞台関連の専門学校。と、的を絞って、再びピアノの個人レッスンの先生へ、声楽で通うことになります。
コンコーネ、コールユーブンゲンなど、懐かしく思い出されます。
高校を卒業と同時に、新劇の劇団の研究所へ研究生として入学。
昼、夜いつ会っても挨拶は 「おはようございます。」の世界に足を踏み入れ、新劇の劇団の研究生としての道を歩き始めました。
と申しましても、実際は母に作ってもらったお弁当を片手に、2時間近くの道のりを行き来し、同じような年ごろから、大学を卒業なさって入所したお姉さんや、すでにこの業界に足を踏み入れて久しい先輩、女優を夢見て上京してきたお姉さんたちなどとにぎやかにレッスンを受けて、歌や踊り、フェンシングなど、多岐にわたるトレーニングに励み、たのしいことばかりでした。
ただ、気になっていたのは、のうのうと両親の庇護の中通っている私は、郷里を離れ、ひとり都内に住んで、アルバイトに励みながら通っている同期生に対して申し訳ないような、そこですでに負けているような感覚にさいなまれたことです。
この感覚感情は、その後今に至るまで、私のどこかに巣くっておりまして、逆地方コンプレックスとなり事あるごとに、私の行動の前に、立ちふさがりました。
これは、今現在も健在でして、コンテストなどで、隣が地方から見えた方だったり致しますと、途端に申し訳なさでいっぱいになり、恵まれている環境でレッスンを受けている私は、入魂がたりないのでは?
などといきなり反省してしまったり。なかなか厄介な代物です。
予選を通過しないと決勝にたどり着けないコンテストには、毎回予選からひたすら通過を願いますから、地方の方は、通過をなさっても、決勝を辞退なさる方がいると知り、大変驚きました。
それはそうですよね。決勝は、東京まで出てきてチャレンジしなければならないのですから、技術以前の壁があるわけですね。
私はもちろん都内は日帰り圏内ですから、恵まれていることに大変感謝をするようになりました。
今になって思い出しますと、私の地方コンプレックスは18歳にして確定したという訳です。
物事の価値感や、評価は18歳くらいで決まり、その後あまり変わることなく大人になっていくのではあるまいか?と私には思えます。
経験が増えることによって加わる価値観はありますが、物事の成否や、大切なものなどは、かなり若い時に決まるのだろうと思います。
この年になって思うわけですから、私はそのようです。
その後、結婚をする、子供を持つなどにより自分より大切なものが増えたり致しますが、根底に流れるものには変わりがないように思います。
若い時は、なかなか自分を愛してあげることが難しいのですが、ある時、「自分が好きです!」
と声を出せたときに、えらく大人になった気がいたしました。
40歳は過ぎていました。
同時に、母に対して「会いたくなったからきたよー。」と照れずに言えるようにもなりました。
酸いも甘いも嚙み分ける年齢ということでしょうか?
今回は、ちょっと変わった高校生だったわたくしの青春時代のお話でした。
さてさてこの先武勇伝はあるのか?
また来月お会いしましょう。
つづきはサロンでも
2022年10月 山宮博子