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From Hip-2023年4月号-「仕事と家庭どっちが大事?」

美容師として仕事を始めたばかりの20代のわたくしは、こんな風に仕事に対する考えはおろか、立ち向かい方といえば、おしゃれで楽しいスタイルを自分が楽しみたいことで頭がいっぱいでした。
まだまだ日本に元気のある時代でしたから、美容室も連日大忙しの時代でした。
今と違ってカラーよりもパーマが主流の時代でしたが、神奈川県下に多店舗経営をしている美容室に就職いたしましたから、他店舗にはホテル内の婚礼美容の店舗もございました。
後に知るところとなるのですが、当時でもアップスタイル、いわゆる結い上げは、ベテラン美容師さんのなせる技で、そうすぐにはできるものではなかったようでした。
けれど、私は、美容学校の二年目はアップのレッスンもたくさんしておりましたし、何より銀座のお店では毎日たくさん見ておりましたから、あまり苦労なくお客様を担当することができました。
当時の美容室にはアップや着付けは当然メニューにあるものだと思っておりましたが、そろそろそうではなくなりつつある過渡期だったかもしれません。
男性美容師も増えているときで、基本男性は着付は遠慮していたと思いますから、伴いアップを断るお店もあったかもしれません。
私の居りましたお店は婚礼美容室があったくらいですから、当然着付けもアップも承っておりましたがアップができる人が少なかったので、そこは重宝がられ、ますますアップが好きになりました。
ディーラーさん主催のアップコンテストに出場して、ご褒美をいただけたりして、その先にある「着付け」がそろそろ見え隠れし始めていました。
お店が講師の先生を呼んでくださる着付け講習に伺い、少しづつ着物に触れていきました。
まだ、20代の半ばです。

昭和の女子のご多聞にもれず、クリスマスまでには嫁に行きたい!などと思い、ようやく仕事が楽しくなり始めたころに結婚をいたしました。
経験のある方はおそらくどなたもそうでしょうが、結婚とは思い描いていたものと、現実は大きく違い、良くも悪くも少なからず大人になることを強いられ、何かと引き換えに自分一人ではない人生が歩み始めたのを感じました。
信頼も尊敬もし大切に思っている夫との結婚は、よいことしか思い描かずで始まりましたので、どんでん返しの連続でもありました。
もちろんこれは私に限ったことではなく夫も同様だと思いますが。
お陰様で夫とは40年近く夫婦として歩んでおりますが、最近になり、ようやく、お互い様だからと思いつつ歩み始めているように感じます。
当時のいわゆる一般的ライフスタイルに倣い、当然のように仕事を辞めて1年後には出産、子育ての嵐と決まりきった人生が続きました。
時々仕事がしたいなあ。と思うことがありましたが、夫の家業を義父母たちと営みながら、いつのまにやら2人になった子供たちと暮らしておりました。
今の若い方たちは、結婚や出産で仕事をやめる選択は少ないのかもしれませんが、当時の日本には出産を控えた女性がいられる職場は少なかったように思います。
特に美容室には、おなかの大きな美容師さんはいませんでした。先輩にはいませんでしたし、退職の希望を出した際に引き留めてくれたマネージャーも、「おなかが大きくなったらすぐやめていいから」
と話してくださいました。思いやりなのでしょうが、複雑でした。
確かに女性にとって出産は大事業です。どうしたって男性にはできませんから。
けれど、仕事も大事業です。特に私たちの選んだ仕事は好きでなければ成り立ちません。
好きなことを我慢する。これは大変なことですよね。
家庭と仕事を天秤にかける。今の今もこの命題に悩んでいる方は多いいと思いますが、天秤では測れないものです。「どっちが大事?」どっちもです!
早くに結論を出さなくともよいと思います。細々でも社会と繋がる道を模索して、子育ても、家庭も、仕事も貪欲に生きていきましょう。

幸いなことなのか?私にはまたまた人生の転機が現れ、美容師として、ばっちり復帰しなければならない時がやってきたのです!
夫と私は、自らの選択で、家業からの離脱を決意します!
こうして、ほぼ8年間家庭内から出ることの無かった私は、美容師として復帰、パートさんではなく、正社員として働き始めました。
32歳でした。
この経緯についてはお話しする時が訪れるのでしょうか?またの機会に。
とにもかくにも水を得た魚のように、私はブランクを物ともせず、まい進する日々が始まりました。
その2年後に、小さなサロンを開店いたします。

さあ、このつづきは次回に。
よく晴れた暑い夏の日から始まります!

2023年春4月  山宮博子でした。@@;

「職人」?「クリエーター」?

さて、美容学校を卒業いたしましたわたくしはと申しますと、2年目の美容学生のころから銀座の8丁目の小さな美容室にアルバイトにいかせていただいておりましたが、動機はいたって不純。
8丁目界隈の美容室は、クラブにお勤めのいわゆる素人さんではない方がお客様たちで、毎日いらしてくださいます。
当時すでに週休二日制だったらしいので、美容室も日曜日がお休みで、そこが一番の魅力だったわけです。
そのお店のお客様方はいわゆる日髪を結いに出勤前にいらして下さるわけです。
主婦の方やOLさんたちとは違い、美容室にお見えになることは、毎日の仕事の一つでもあるわけです。
皆さま女優さんのようにおきれいな方ばかり、お着物の方が多かったように覚えておりますが、当時の私は、いつ先生に怒られるかひやひやしながら、夕方の大忙しの店内をうろうろしておりました。
その仕事のほとんどが網カーラーを巻く、しかもとんでもなく早くです。
当時はいわゆるフードドライヤー、おかまに入るのですが、それも5分で外すと、先生は5分足らずで美しい和スタイルのアップを結い上げてしまいます。
お店に見えてから、30分で皆様お帰りになりますから、わたくしたちが大急ぎで下巻きをいたしますのも当然です。
先生がおひとりで切り盛りしていらっしゃるお店でしたから、わたくしたちはアシスタントで、下巻きをさせていただいていたわけですが、普通の美容室ならば、ロットのワイディングを練習するところを、今では見かけなくなったロングの網カーラーを手早く巻く練習に明け暮れておりました。
短い期間ではありましたが、この特別なお店での経験は、後のわたくしに、とても大きな影響を与えてくれたところでもありました。
その後、自宅の近くで、電車に乗らずに通える美容室に就職をいたします。日曜日休みには、ここで終止符をうったわけです。
若い時のわたくしは、ご多分に漏れずまだ仕事に対する考えが甘いばかりか、立ち向かう姿勢も覚悟の足りないことこの上なく、元気だけが取り柄でございました。

それもこれも今だから言えることで、当時は最終兵器であった美容師になってしまったわけですから具体的に目指すものはまだ漠然としていて、周りの美容師さんたちの様子を伺いながらの日々でした。
ただ、思い起こせば、「美容師」という人種を、遠くから俯瞰し、何か腑に落ちないものを感じていたことは確かでした。
美容師が職人であることをまだ肌身で感じてはいなかった、ということでしょう。
今も「職人」というくくりで一言で表現してしまうことには、いくばくかの抵抗があります。
強いて一言でというならば「クリエーター」とでも申しましょうか。
本来ならばアーティストと名のりたいところなのですが、残念なことに「アーティスト」とは名乗れない。写真として残せば残りましょうが、美容室の中でお客様のご要望を伺っておつくりする限り、作品と言っては間違いでしょう。
後に頻繁にコンテストにチャレンジし、作品表現を始めるようになるのには、こんなところもございました。
ご要望を伺う,お客様に対しては大切なことですが、クリエーターといたしましては、やはり、表現の幅が狭まるように感じ、物足りなさを日々募らせておりました。
コンテストではご要望を伺う必要がございません。コンテストである限り、主催者様やコンテストの意義を理解することは大切だと思いますが、自らの技術を最大限に使い磨き表現していくことは、表現者としては最高の喜びでもありました。
そして磨かれた技術は、翌日からの仕事に直結して生かされ仕事の幅も広がります。

いつの間にか長く続けることによって、覚悟も備わっていったのだと思いますが、若い日々は今思い起こせば、顔から火が出るようなことの連続でした。

独身時代まだ歩き始めたばかりの新米美容師のわたくしには、備わっていないものが多く、覚悟もできておらず「すき」の一言だけが頼りで始まったみちのりでした。

さて、暑い夏の日に開店することになった私の小さな美容室のお話は、また先送りとなりましたが、次回にはたどり着きますかどうか?

今回はここまで。

春ど真ん中。 

2023年3月
山宮博子でした。

初めての成功体験

さて、21歳半ばで美容学生になった私の毎日はといいますと、学校があったのは東京の品川区というところで、山の手線の輪から一駅外れた大井町の東京マックス美容専門学校へ毎日通いました。
マックスファクターという化粧品会社が経営しているのだと思っていましたが、今は、当時とは資本などもかわっていると思いますので、経営媒体については詳細は知りません。
どうしてここだったか?と申しますと深い理由は何もなく、私が知っている美容専門学校はせいぜい山野美容専門学校くらいでしたので、真っ先にそこに行こうとたくらんでおりましたが、夜間のつもりが,昼間部へという両親のすすめで、調べましたところ、時は4月の入学は過ぎてしまっていて、秋の入学となると夜間ばかりで、唯一マックスには10月入学の昼間部があったというだけの理由でした。
朝は平塚から品川まで行き、一駅戻って大井町へ1時間30分の道のりでした。
毎日が知らないことばかりの連続。
美容師の仕事が何たるか何も知らずに入学しているわけですからまず渡されたウイッグに度肝を抜かれるわけです。
四角い肩掛けカバンの中身は何なのだろう?と入学式の帰りに電車の座席でふたを開けるのですが悲鳴をあげそうになりました。こちらを向いていましたし。
このウイッグと何十年にもわたる格闘が始まるとは、まだそのときは知るすべもありませんでした。

当時の私に美容師の仕事の認識と言ったら、髪を結い上げてくれていた近所の美容室の先生くらいしか知りませんでしたし。
自分の髪はいつも長くしてくせ毛を結んで楽しんでおりましたので、カットにもろくに行ったことがありません。
こんな私が、ワイディングのためにウイッグをカットしたり、コームアウトのトレーニングでローラーを巻いたり、パーマに使うロットを、くるくると巻くトレーニングをするわけです。
一番初めのワイディングの授業では、今となってはたった50本にも満たないわずかなロットを、朝巻き始めたときには、今日中にとても巻き終えるとは思えない!とばかりに気が遠くなったものでしたが、ついに授業終了の午後3時には全頭巻き終わり、出来はともかく、達成感とともに大変な喜びを感じました。
まだまだ単純な作業であるワイディングではありますが、まじめな私は連日トレーニングを重ね、行き帰りの電車の中でも指にロットを持ち、エアワイディングをしながら通学をいたしました。
毎日は新鮮で、新しいことづくめ。楽しいことこの上ありませんでした。
美容学校の同級生たちはさまざまな年齢、経歴の持ち主ぞろいで、これは、10月入学だからなのだと思いますがあっという間に1年が過ぎていきました。
ただ残念なことに、同級生の中には早々に退学する者、不意にいなくなる者、あるいは授業中にまったく別ことをしている者など、私が今まで知っている「学生」というにはかなりかけ離れている輩がおりまして、美容師さんというのはこんなものなのか?とがっかりした面もございました。

卒業前には卒業コンテストがあり、カクテルドレスにメイクとアップの課題。
そしてありがたいことに入賞!
衣装は音楽大学生の姉のステージ衣装を借りて、大学生の友人がモデル。
この入賞が、思い起こせば美容師としての最初の成功体験かもしれません。
夢中で練習いたしましたが、楽しいことこの上ありませんでした。
さて、当時は1年間の学生が終わると、インターンとして美容室に就職して、1年過ごし、その後に晴れて国家試験を受けるというシステムでした。
ですが、マックス美容専門学校には、師範科と申しまして、もう少し実践的なことを学べる上級クラスがございました。美容室でインターンをせず学校でするコースという訳です。
暮れには美容室に研修に伺ったり致しましたが、もう1年学生をさせてもらい、ボランティアでカットをしたり、撮影の勉強をしたり瞬く間に国家試験となりました。
当時の国家試験は都道府県別でしたので、東京、神奈川、茨城を受験、全て合格いたしましたが、東京だけを申請いたしましたので、免許には都知事の名前が記されております。
いよいよ美容師となるわけですが、実際にはわたくしの美容師人生は、自分の店を開業してようやく本当の意味で始まったように思います。

あれから30年、ひたすら走り続けております。がこんな風に、時々振り返る機会をいただけて、己の来た道を思い起すことも、自分の内側に目を向けることも必要なことのようですね。

今回はわたくしが美容師としてよちよち歩きを始めたころのおはなしでした。
次は暑い夏の日に開業を始めた、小さな美容室のお話と行きましょう!
それではまた。

2023年2月  山宮博子でした。

From Hip -2023年1月号-

明けましておめでとうございます。
今回は新年ということもあり、つらつらと私事を連ねていくにあたり、子供のころの日本がまだまだ上向きで、元気のよかった昭和のお正月のお話をさせてください。
私が子供のころ、昭和40年代から50年代。今思えば、わずか戦後20年かそこらであったにも関わらずごくふつうのサラリーマン家庭でも夢のマイホームを手に入れ、目の前で音を立てるがのごとく生活様式は変化をしていきました。
特に裕福ではありませんでしたが核家族化した我が家では、まだ30代だった母はいつもとても生き生きと生活を楽しんでいたように見えました。
おしゃれな彼女は、自分でミシンを踏んで私たち姉妹にお揃いで洋服を作ってくれて、自分の洋服もお揃いに作るほど熱心でした。
そんな母でしたので物心ついたころには、お正月といえば毎年晴れ着を着せてくれました。
当時は、7歳の祝着も本断ちで作りますから、なにも直さずとも10歳前後までは着ておりました。
父方の祖母は、和裁が達者で、父の妹たちは、私の叔母になりますが、揃って日舞のお稽古をしておりました。その稽古に着る着物も、何やら発表会に着る着物もせっせと縫っておりまして、いつのまにやらわたくし達に回ってきておりました。
母も和裁をする人で、桐のたんすにはいつも着物がたくさん詰まっているように思っておりました。
叔母が発表会に着た着物はそれはかわいらしく、11歳で袖を通した時にはワクワクドキドキいたしました。
袖も長めで、今思えば振袖ほどではありませんが、当時の私には十分でした。
暮れの12月30日か31日には姉と二人で近所の美容室に行きまして流行り始めの、新日本髪を結ってもらいます。
二人して、少し形違いの櫛と平打ちのセットを買ってもらい、前差しには赤い房のくす玉。姉はべっ甲もどきの前差しでした。
そのうれしかったこと。姉のほうがお姉さんぽい飾りなんだ。と思ったことも覚えています。
その一組は、今でも日本髪のトレーニングに使っています。少し赤い漆がはげましたが、そこは根の中でみえません。
結ってもらった髪は3が日はそのままです。途中で撫でつけに行き、寝るときにも気を付けて寝ました。
二人で混んでいる美容院で何時間も過ごしたと思いますが、苦痛ではなく『博子ちゃんの髪はやりやすい。いい塩梅で癖があるよ。』と美容院の先生が言ってくれるのはうれしくて、くるくるしているくせ毛を一度も嫌だと思ったことはありませんでした。
後に私の娘がくるくるで生まれ、中学生で縮毛矯正をしたいと言い出した時には、あらま残念だと思ったものです。

元旦には母に着物を着せてもらい、家族全員で着物を着て両親の実家に行く。もちろん父もです。
それは中学生になるまで続きました。
それからは姉は振袖になり、私は7歳の本断ちの着物を直してもらいしばらく着るのですが、それは私がお正月に着る着物が無ーいと母に訴えたからなのでした。
母はたんすから姉の7歳の時の着物を取り出し、さっと、おそらく一晩か二晩で仕立て直してくれました。
私の7歳の着物はずっとそのままで、その後、私の娘が5歳のお正月に着てくれました。
着物とは不思議なものですね。そうやって生まれ変わるのですから。
その後も娘が小学生のうちは、お正月には家族で着物を着て過ごしました。
高校生になりますと着物を着て彼と出かけるようになりましたが。
余談ではありますが、娘が生まれた際、母は産院から呉服屋に電話を致しまして、白無垢に桃色の比翼の一つ身を注文し、一月後の初宮に羽織らせ、3年後に息子に恵まれますと比翼を水色に仕立て直して使いました。
その後それを数えで7歳の前に友禅に染め上げ、7歳の祝い着といたしました。
娘も10歳まではこの着物でお正月を過ごしておりましたが、十三参りの際に私の振袖に肩上げをして着始めました。
こんな風に決して裕福な家庭ではなかったはずですが、お正月にはたんすの中から別世界が現れ、私たちを楽しませてくれました。
それも着物を着るという楽しみがあったからです。
海外旅行にもいきませんでしたし、生涯つましく生きた両親でしたが、心豊かにお正月を楽しむこと。
おしゃれや行事を大切にすることを身をもって教えてくれました。
昭和はある意味心の豊かさとともに終えたように感じます。
今回は私のノスタルジーに付き合ってくださりありがとうございます。
皆様もお正月、心豊かにお過ごしくださいませ。

2023年1月  山宮博子

神奈川県の伊勢原駅より徒歩1分と平塚市の美容室です。ヘアやカラー、パーマなどの美容室のメニューやメイク、ネイルなど多彩なメニューを取り揃えており、髪のダメージから日頃の疲れまで、癒し系のサロンで髪をケアできます。流行を追うだけでなく、魅力を引き出すために骨格や髪質に合わせたスタイルを提案し、そして希望の仕上がりイメージをしっかり共有したうえで施術し、アフターケアやスタイリングのアドバイスまで納得の仕上がりになる大人女性が支持する美容室です。