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2023.01.01

From Hip -2023年1月号- たんすの中は別世界

明けましておめでとうございます。
今回は新年ということもあり、つらつらと私事を連ねていくにあたり、子供のころの日本がまだまだ上向きで、元気のよかった昭和のお正月のお話をさせてください。
私が子供のころ、昭和40年代から50年代。今思えば、わずか戦後20年かそこらであったにも関わらずごくふつうのサラリーマン家庭でも夢のマイホームを手に入れ、目の前で音を立てるがのごとく生活様式は変化をしていきました。
特に裕福ではありませんでしたが核家族化した我が家では、まだ30代だった母はいつもとても生き生きと生活を楽しんでいたように見えました。
おしゃれな彼女は、自分でミシンを踏んで私たち姉妹にお揃いで洋服を作ってくれて、自分の洋服もお揃いに作るほど熱心でした。
そんな母でしたので物心ついたころには、お正月といえば毎年晴れ着を着せてくれました。
当時は、7歳の祝着も本断ちで作りますから、なにも直さずとも10歳前後までは着ておりました。
父方の祖母は、和裁が達者で、父の妹たちは、私の叔母になりますが、揃って日舞のお稽古をしておりました。その稽古に着る着物も、何やら発表会に着る着物もせっせと縫っておりまして、いつのまにやらわたくし達に回ってきておりました。
母も和裁をする人で、桐のたんすにはいつも着物がたくさん詰まっているように思っておりました。
叔母が発表会に着た着物はそれはかわいらしく、11歳で袖を通した時にはワクワクドキドキいたしました。
袖も長めで、今思えば振袖ほどではありませんが、当時の私には十分でした。
暮れの12月30日か31日には姉と二人で近所の美容室に行きまして流行り始めの、新日本髪を結ってもらいます。
二人して、少し形違いの櫛と平打ちのセットを買ってもらい、前差しには赤い房のくす玉。姉はべっ甲もどきの前差しでした。
そのうれしかったこと。姉のほうがお姉さんぽい飾りなんだ。と思ったことも覚えています。
その一組は、今でも日本髪のトレーニングに使っています。少し赤い漆がはげましたが、そこは根の中でみえません。
結ってもらった髪は3が日はそのままです。途中で撫でつけに行き、寝るときにも気を付けて寝ました。
二人で混んでいる美容院で何時間も過ごしたと思いますが、苦痛ではなく『博子ちゃんの髪はやりやすい。いい塩梅で癖があるよ。』と美容院の先生が言ってくれるのはうれしくて、くるくるしているくせ毛を一度も嫌だと思ったことはありませんでした。
後に私の娘がくるくるで生まれ、中学生で縮毛矯正をしたいと言い出した時には、あらま残念だと思ったものです。

元旦には母に着物を着せてもらい、家族全員で着物を着て両親の実家に行く。もちろん父もです。
それは中学生になるまで続きました。
それからは姉は振袖になり、私は7歳の本断ちの着物を直してもらいしばらく着るのですが、それは私がお正月に着る着物が無ーいと母に訴えたからなのでした。
母はたんすから姉の7歳の時の着物を取り出し、さっと、おそらく一晩か二晩で仕立て直してくれました。
私の7歳の着物はずっとそのままで、その後、私の娘が5歳のお正月に着てくれました。
着物とは不思議なものですね。そうやって生まれ変わるのですから。
その後も娘が小学生のうちは、お正月には家族で着物を着て過ごしました。
高校生になりますと着物を着て彼と出かけるようになりましたが。
余談ではありますが、娘が生まれた際、母は産院から呉服屋に電話を致しまして、白無垢に桃色の比翼の一つ身を注文し、一月後の初宮に羽織らせ、3年後に息子に恵まれますと比翼を水色に仕立て直して使いました。
その後それを数えで7歳の前に友禅に染め上げ、7歳の祝い着といたしました。
娘も10歳まではこの着物でお正月を過ごしておりましたが、十三参りの際に私の振袖に肩上げをして着始めました。
こんな風に決して裕福な家庭ではなかったはずですが、お正月にはたんすの中から別世界が現れ、私たちを楽しませてくれました。
それも着物を着るという楽しみがあったからです。
海外旅行にもいきませんでしたし、生涯つましく生きた両親でしたが、心豊かにお正月を楽しむこと。
おしゃれや行事を大切にすることを身をもって教えてくれました。
昭和はある意味心の豊かさとともに終えたように感じます。
今回は私のノスタルジーに付き合ってくださりありがとうございます。
皆様もお正月、心豊かにお過ごしくださいませ。

2023年1月  山宮博子

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